写真家 新正卓 Photonwork4 インタビューその3

コマーシャルフォトグラファーから写真表現者へ

シリアスなフォトグラファーを目指して その3

ARAMASA SAKURA

 

-photonwork-

「ARAMASA SAKURA」「20〜24」における、 写真の原点回帰ともいえる展開に至った経緯をお聞かせください。

 

-新正-

足掛け十五年間の写真教育の現場は自信喪失続きで、カリキュラムは常に揺れ動きました。今世紀に入って学部映像学科新入生が八十五名体制になったのを機に、映像基礎I(入学初日から開講される映像研必修科目)のカリキュラムにピンホール映像をとりあげ、その教材見本を自製のピンホールカメラで制作することにしました。仕上げた桜のケミカル写真が、たまたまキュレーターの先生の目にとまって、サンフランシスコで個展が開催されました。S. F. MOMA主任キュレーターの方が、個展タイトルにARAMASA を冠して「ARAMASA SAKURA」と命名してくれました。少々「照れ」がありましたが、図々しくも退任展ブラックキューブのトップに配置し、カットスポット(ライト)で暗黒に桜花像を浮遊させた展示が日本初公開になりました。シスコで著名紙のArt 頁を飾ることができてとても嬉しかったのですが、ここで本音を吐露しますと「ピンホール映像」は写真の原点と言われていますが、実はプロの写真家が創作に行き詰まったとき、目先に変化をつけ窮地から脱する格好の道具の一つでもあるのです。

 

海へ…そして境界

 

-photonwork-

「海へ…そして境界」「25〜28」では、歴史性を表に出した制作ではなく、抽象的ともいえる表現になったと考えられますが、にもかかわらず、そこには徹底した歴史や記憶に対する意識が根底にあるように感じられます。一貫して表現の軸がブレない理由と、それをふまえて新しい表現に向った意識をお伺いしたいと思います。

 

-新正-

表現の軸にブレがない、もっとも嬉しいことをあなたは言ってくれました。表現者にとって、そのことは理想の境地なのです。創作のときいつもその問題に苦慮しています。多分僕の場合、少年期の実体験としての認識が意識下に存在したから表現にブレが生じなかったのでしょうねぇ…。ただし敗戦難民体験は表現者として、幸運だったと言えないでしょうねぇ…。今の話に反し、報道写真記者の場合、国家体制とか社会の有り様に、さらに会社の方針等に何らかの影響を受けずに表現できぬはずです。ニュース写真はそういう運命を背負っています。それに真実との戦いも常に存在しています。組織を脱しなければ本来の自由に行き着かぬし、組織で生きた尻尾はなかなか取れぬものです。最初からフリーで出発した僕の場合はその点自由でしたが、経済的には破綻がありました。
  〇〇年、写真集『約束の大地』がみすゞ書房から上梓されたとき、僕は六十五歳になっていました。構想をぼんやりと抱いてから二〇年もの永い時が過ぎ去っていました…。
  ちょっとこの辺で少年期の夢にまで現れる既視感の刷り込みを、机側にそっと置こうよ…、そして次の構想を組み立て始めることにしたのです。
  「海へ」回帰する意識は『約束の大地』撮影当初から平行して、イメージコレクションを積み重ねていました。韓国の海岸線をすべて走破し、日本海の越しに見えない心の境界を凝視したり、中国本土から南支那海越しに日本を見つめなおしました。遅筆な写真表現者にとって残されている時間と次のプロジェクトのバランスが常に気にかかります。
  〇一年震撼突発した九・一一以後、地球の社会環境が確実に負の角度に変貌したことをかなり意識しつつ、心の境界を凝視する行為として「海へ… そして境界」探しの原点への回帰を完結したいと想っています。

 

〈聞き手:小池浩央〉