写真家 新正卓 Photonwork4 インタビューその1

コマーシャルフォトグラファーから写真表現者へ

シリアスなフォトグラファーを目指して その1

 

-photonwork-

新正さんはたびたび、「河を渡った」という表現をされていますが、 コマーシャル・フォトグラファーから、シリアスな写真家に至った経緯をお聞かせください。

 

-新正-

シリアス(フォト)という言葉は、日本だけの表現で英語圏にはないようですね。僕はあまり使わないようにしています。コマー シャルのように目的がはっきりしている写真表現にあっても、人間の本質をテーマにする場合もありますし、同根の写真表現においてことさらシリアス派あるいはコマーシャル派だと区分けをする必要を特に感じていません。ただ僕が「河を渡った」と時々使った経緯は少年期の体験が基になっています。旧満州で無条件降伏直後の逃避行のとき、河を対岸に渡りきればなんとか命が救われるかもしれない、逃げ場のない命がけの、夢にまで 出てくる既視感を表現したものです。
  六〇年代のグラフィックデザインの時代から、七〇年代の職業写真家時代の僕を取り巻く環境は、金髪で碧い眼、八頭身のマヌカンにすべての広告界が主体性なく傾斜した時代で、流行の上澄みというか、風俗の先端に立つためのいじましい努力、そんなことに辟易としはじめた自分自身への悶えみたいなものからの脱却を意識していました。 普遍的な理想の表現へ一歩でも近づきたい(「えい ! やあ !」と自身に気合いをいれたい)思いで、なにかのためとか、誰かのためではなく、自身のため、オリジナルな写真表現のため、さらに写真でなにができるのかに価値を見出したい、といったちょっと分裂ぎみな気分だったので しょう。

 

-photonwork-

『CARNAVAL』 や 『TO MY ANGELS』 にはすでに ドキュメンタリー写真の要素がありますが、そこから 『遥かなる祖国』 につながっていった部分はありますか?

 

-新正-

そんな風に感じてもらえたんですかねぇ? 『CARNAVAL』 に関してはドキュメントというよりもむしろ嘘の少ないコマーシャル を意識していました。
  七〇年代初期の僕は文化出版局の特派員としてパリでファッションの勉強をしていました。四季、オートクチュールの有名ブランド店でしか発表がない時代で、上流意識一辺倒の様相でした。ジャポネに対する偏見も厳しい時代で、それこそパリの上澄みの感性に翻弄され、ファッション情報を丸ごと東京に発信するといった一方通行の時代だったのです。フランスから東京へ帰国後、その反動から自由を尊ぶアメリカに憧れ、インターナショナルなプロになるためにと悪乗りして「ARAMASA Taku のニューヨーク」 ( 『アメリカン・パロディー』 ) なるものを企画した直後だったからかもしれません。ニューヨークを揶揄することによってARAMASA in NY に決着を挑みました。華のパリから先端のニューヨークへ飛翔したつもりの、多分振幅の激しいその反作用だったわけです。出版後のニューヨークでの評価は、フランス人の見たニューヨーク、といった批評でした。日本人ファッションフォトグラファーの存在がまるで見えていなかったのです。いいような悪いようなどっちつかずの様相がインターナショナルな写真家なのか? と、また自問自答が始まってしまいました。このような背景があった状況で、幸運にもキヤノン株式会社(サークル会員販促)から創作写真集 ( 『CARNAVAL』 ) 企画の要請を受けました。
  コマーシャリストとして真骨頂を発揮するためには、三六〇度の大転換を目論み、当然のことのように、アマゾンを包括した南米の大自然、手付かずの大地がイメージされたのです。ブラジルのロケハン(カメラ毎日編集者・山岸省二、ロケマネとして壇太郎)にはアマゾン中域都市マナウスから初入国しました。当然のことながら僕のイメージ構造 (テーマ)の主題は「大地と祭」でした。マナウスからアマゾンを船で下り河口の都市ベレン、近未来都市ブラジリア、古都レシェフェ、歓楽都市リオデジャネイロまでの道中で、山岸省二と毎夜激論が出たのはいつもの成り行き通り、結果意気投合したのが 『CARNAVAL』 の構造と新たに地の利をいかし発案された 『TO MY ANGELS』 のコンセプ トでした。留意したのは上質なコマーシャリストとしての感性を充足させた上で、二つのプロジェクトをいかにして 「大地と祭」、「大地と女」の本質(人間性)を見据えて貫くか、決してドキュメント的表現のみが目標でなく、むしろ嘘の入り込む隙のない完璧な大地と人間の織りなす佇まいが目標でした。
  リオデジャネイロまで同行した山岸省二はNY経由で一足先に帰国、残留組の二人はサンパウロ州まで足をのばしたうえで、ロケーショ ンハンティングと取材チームの構成プログラムを整えました。サンパウロでは奇遇ともいえる天与の出会いがありました。映画やTV、グラフ誌などでブラジル一の人気を誇る大女優「エウキ・マラベーリャ」と知り合うことができ、本番再訪での 『CARNAVAL』 『TO MY ANGELS』 撮影全行程のコーディネートをエウキ自ら快諾してくれ、そのうえ彼女自身も出演を了承してくれました。
  灼熱の太陽の下、ブラジルの大地は写真家に最大の幸運をもたらしたと言えます。この長期ロケハンの旅は帰国後の東京で、僕の精神不安定な状況を劇的に変えました。コマーシャルフォトの分野から少しずつ遠ざかりつつ、写真家としての基軸のありかたを変えるための重要な契機になったと、今更ながら回想しています。

 二年後の話ですけど、八〇年に上梓した 『TO MY ANGELS』 は、山岸省二が見届けることなく無念にも鬼籍の人になり、仏前に新作を供えることになりました。僕を写真の世界に引きずり込んでくれた戦友なき後の虚無と、三十二年ぶりに立ち現れた既視感の空白を、八一年春からの中国日本人残留孤児訪日調査と移民行政実体の研究に埋没するしか、写真家として生きる構造が残されていない状況でした。生活のためのコマーシャル撮影、空白を埋めるための親探し ( 『私は誰ですか』 ) と南北アメリカの日系移民調査を悶々と続けた結果、五〇歳を目前にしてコマーシャルから一線を画した 『遥かなる祖国(南米移民一世の肖像)』 「1〜5」が朝日新聞社から出版されました。翌年の春、土門拳賞(毎日新聞社)を与えられたことによって、コマーシャル・フォトの世界から「河を渡りきった」のかなぁ? 写真家としての構造を持ち得たのかなー? と一瞬錯覚しました。

 

遥かなる祖国(南米移民一世の肖像)