写真家 新正卓 Photonwork3 インタビューその4

グラフィックデザイナーからコマーシャルフォトグラファーへ

イメージを超えたイメージの世界を求めて

 

トゥ・マイ・エンジェルズ
トゥ・マイ・エンジェルズ

-photonwork-

五冊目の『トゥ・マイ・エンジェルズ』 [10〜13] (一九八〇、全国出版社刊)は、ほとんどドキュメンタリー写真ですね。もちろん、撮り手と娼婦たちとの間に仲介者の存在があるようですが。演出性とドキュメンタリー性が共存しているというか…。

 

-新正-

『トゥ・マイ・エンジェルズ』は、まさに向こう岸(シリアスな写真)へと河を渡りながら撮っていたものです。心情として一種のロードムービー的な写真かもしれません。七七年、山岸省二さんと一緒にブラジルを旅して、さっぱりと甘ほろ苦いカサーシャ(地酒ピンガのレモン割)でいっぱいやりながら一九〇〇年初頭のベロックのことを語り明かしたのが切っ掛けになってます。当時のブラジルにはシャッカラ(娼家)が各地方独特の形式で無数にありました。車でロケを続けながら撮影したものです。当然、すべての娼婦たちが合意のうえで登場してくれています。貴男の指摘に或る仲介者のことですが、実は彼女なくしてこの撮影行は成立しなかったことを特記すべきです。「エウキ・マラベリア」は七〇〜八〇年代ブラジル全土にかけての象徴的なエンターテナーといった存在で、フアンの層は子供から老人までの階層全ての大スターといった人です。僕は現地テレビや週間グラフ誌などで知り、訪ねることにしました。僕にもあんな不思議な程のエネルギーが在ったんですね、幸運なビンゴてなことになつて説得に成功しました。気さくで包容力のおおきいエウキ・マラベリアは日本人写真家の想いを聞き届けてくれました。後に知ったことですが彼女は常日頃からヒオ・デジャネーロのファベーラやストリートチルドレン、弱者の収容施設などを訪問し励ます援助をライフワークにもしている偉大な人物でした。意気投合したエウキと娼館を訪ねる旅は三度にわたり二〇〇〇キロを超えました、どんな形式の館に潜入しても客待ちしている大勢のプッタ(娼婦を蔑視した呼称)たちは皆、嬌声を張り上げエウキを抱擁します。僕の理解を越えた瞬間が幾度となく現れたのです。実は、『トゥ・マイ・エンジェルズ』の撮影中のエピソードはたくさんあります。
  たとえば、エウキ共々撮影チームが強盗にデッ食わし、車ごとカメラや撮影済みのフィルム一再ガッサイを強奪されました。エウキは素足でスタスタ十キロ以上も歩かねばならぬ事件でした。写真集に収めたフィルム数の四倍以上は盗られています。あんなにも痛いおもいをしながら、なぜかポルトガル語圏は憎い想いがしないんです、不思議なものですね…。結果、三冊もブラジルをテーマにした取材をしてしまったわけです。

 

-photonwork-

『トゥ・マイ・エンジェルズ』にはすでに、 後の『遥かなる祖国』(一九八五、朝日新聞社刊)につながるような 印象を受けるのですが ?

 

-新正-

エウキとの旅はその後も続き『カーナバル』(一九七九、キャノン販売株式会社刊)の撮影時レシェフェの古く伝統を誇るカーナバルに彼女に案内されました。祭りのど真ん中でもエウキは主役でした。ブラジルの深紅の大地はエウキを讃えます。此のように大きな数度に渡る旅の途上、各地の日系人の方々とも知己を得ることが出来て後のプロジェクト『遥かなる祖国』の為の土地勘におおいに貢献したのです。エウキ・マラベーリアが発散した大地への讃歌は僕へ乗移り、灼熱の太陽の下での白昼夢といったこの旅は、僕のネバーランドとしての『遥かなる祖国』へとブラジルの大地は繋がってゆきます。『カーナバル』にはもう一つ大きな特徴が在ります。エウキはこの企画の主役を旅の途上で見つけ出してくれたのです。オルフェの主役にも必適しそうな青年をアラサツーバのシャッカラ(田舎の娼館)で探し出し、四〇日間ロケに連れ出す交渉を娼館の女将と話を付けてくれたのです。僕はサンパウロ州きつての美系男娼オズマールをモデルとして買い切り前金を渡しロケーション出発の日を約束して、次の目的地に旅立ちました。

〈聞き手:大嶋浩〉

 

 

新正卓

掲載した作品および図版については 下記のとおりです。
1. 「出発の時」1969年(「カメラ毎日」誌より)
2,3. カヤンガル島でトレーニングのために撮影 1965 年
4,5. 「ハイファション」誌に掲載されたエリカ
6,7. 『エリカ』より 8. 『エリカ』表紙
9. 『アメリカン・パロディ』表紙
10〜13.「 トゥ・マイ・エンジェルズ」