写真家 新正卓 Photonwork3 インタビューその2

グラフィックデザイナーからコマーシャルフォトグラファーへ

インターナショナルなフォトグラファーを目指して

 

-photonwork-

七六年から八〇年まで毎年一冊のペースで、かなり精力的にNUDE PHOTO SERIES を出していきますが。

 

-新正-

当時、インターナショナルなフォトグラファーを目指していました。アベドンやヘルムート・ニュートンを凌駕するような写真をいかに撮るか。そんなことを考えて、写真を撮っていましたね。要するにインターナショナルの意味をまだ理解するところまで成長しきれていなかった証拠みたいなもので、恥じ入ります。

 

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五冊のNUDE PHOTO SERIES を見ていきますと、演出色がどんどんそぎ落とされ、ドキュメンタリー色が強くなっていくような気がするのですが。とりわけ、三冊目の『アメリカン・パロディー』を境に、ブラジルで取材した『カーナバル』や『トゥ・マイ・エンジェルズ』はドキュメンタリー写真に近い気がします。

 

-新正-

実は七六年に『エリカ』、七七年に『パトリシア』(北斗企画刊)を出した後、七七年の暮れに、僕の人生を大きく変える事件が突発しました。僕は東京に生まれた後、祖父母と共に一九四〇年に満州に渡ります。敗戦後の四七年に日本に引揚げてくるわけですが、

四六年の一月、難民化した収容所のどさくさの中で、母の従姉妹であり、僕の乳母代わりでもあった叔母が行方不明になってしまいました。七八年の暮れ、真さに生きて別れた叔母から三十二年ぶりに「日中国交が正常化されて一時帰国が可能かもしれない」という、冥府からの便りをもらうわけです。まさに晴天の霹靂というか、一気に自分の過去が甦りました。その後、一時帰国した叔母を見舞うために、引き揚げ後初めて中国の地を踏みました。そこで、大勢の中国残留孤児の人たちと出会うことになります。自分の肉親を探すために、ぜひ、自分の写真を撮ってくれと言われ、シーツを壁にかけ、撮影を始めました。ファッション写真や広告写真のプロとして、撮影には自信があるわけですが、彼らの切羽詰った望郷の念を前にして、これまでプロの写真家として培ってきた方法論がまったく意味をなさない。孤児たちは自ら服を脱ぎ、幼年期からある痣の形や手術をした跡を見せてくれたり、恥部の脱腸の様子など、母親が見れば一目で理解するだろうと。それをどう撮ったらよいのか。彼らの鬼気迫る要求にどう応えたらいいのか。グラフィックデザイナーとして培ってきた美学も、ファッション写真家としての方法論も、すべての鎧を外して、こちらも素の状態で対応する以外になかったわけです。

 

-photonwork-

いわば、写真の美学や文法といった装いを武装解除せざるを得なかったわけですね。

 

-新正-

それまで僕が身を置いていた広告やファッションの世界というのは、虚像をつくるために虚構を演出する世界なわけです。そうした世界で写真を撮ることの欲求不満も少なからず在ったかもしれません。決して、広告やファッションの世界が嫌だったわけではないですよ。それなりに楽しんでもいましたし、評価もいただいていました。それでも、流行作家が純文学に憧れるみたいに、もっと本質的なことに迫りたいという思いはあったわけです。七八年暮れの事件というのは、そうした思いとどこかでリンクする契機になった気がします。デザイン性や演出性、そうしたものを排除し、写真だけで語らせる写真。それを考える契機になったと言えるかもしれません。いわば僕にとって「もう一つの写真」探しです。実際、その後、ファッション写真や広告写真を撮りながら、中国残留孤児の人たちを撮り続けることになるわけです。『カーナバル』(一九七九)や『トゥ・マイ・エンジェルズ』(一九八〇)はまさに、純文学という向こう岸にある河を渡ろうとしている途上に撮ったものでもあるわけです。